シルクロードのバネ工場

ウズベキスタン、フィリピン、ベトナム、モンゴル、そしてシリアに渡った日本語教師のブログです

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

弔い合戦(序章)

今回はトートツに真面目な話から始めてしまいますが…

人にはだれしも「今の自分を支配している過去のできごと」というのがあるかと思われます。

まあ平たく言ってしまえば「影響だとか衝撃を受けたこと」であったり、「忘れもしない大きな失敗」であったり、出会いや別れやその他諸々、とにかくいいことも悪いこともひっくるめて「今の自分が形成されるに至る過程、その道中における重大なできごと」みたいなものなんですが、たとえば私の場合、仕事の上でも私生活においてもまぁそれなりにいろいろなことがあって、そのうちのひとつに

日本語を学ぶことを熱望し、私を慕ってくれていた学生たちを見捨ててしまったこと

というのが「日本語教師としての自分自身のあり方」を決定づけているような気がします。

以前、もうかれこれ1年近く前のできごとになってしまいましたが、モンゴルで私の後任の日本人教師を募っていた際のエピソードを書いたことがあります。

「後任をめぐって(2009年5月15日)」←これと、
「新年度にむけて(2009年5月19日)」←これ。

この二つの記事の最後の部分で登場するこの写真、並んだ3枚のうち真ん中の写真は2006年の春にウズベキスタンのフェルガナという街の、フェルガナ大学で日本語を学んでいた学生たちと撮った1枚です。

彼女たちがフェルガナ大学で日本語学習を始めたのは2003年の秋、私が日本語教師のボランティアをするためにウズベキスタンに渡ったのとほぼ同じ時期になります。

当時、フェルガナ大学にはやはり私と同時期に着任された日本人の先生がおり、その先生のもと、大学の専攻とは別の、取っても取らなくても成績にはまったく反映されない自由選択科目という形で日本語コースが設立されました。

で、当時フェルガナからバスで1時間程度の田舎町に住んでいた私も、何度か依頼を受けてフェルガナ大学に赴き、書道教室をしたことなんかもありました

その後、私はウズベキスタンを離れてフィリピンで2年間働くことになるわけですが、その間にも「フィリピンでの任期が終わったらフェルガナ大学で教えませんか」なんていう話もいただき、現地ウズベキスタンではフェルガナ大学の日本語コースも軌道に乗り、順調に新任の日本人の先生が赴任したりして平穏な日々が続いていました。

…が、2005年5月、フェルガナに近いアンディジャンという街で反政府勢力による暴動が勃発。多くの犠牲者を出し、フェルガナ地方が緊張に包まれるという事態に。

この事件がきっかけで、当時フェルガナ大学に勤めていた日本人の先生はフェルガナからの撤退を余儀なくされ、首都のタシケントへ。それと同時にフェルガナ大学の日本語コースも消滅の危機に直面してしまいました。

そんなこんなで思わぬとばっちりで教師不在となってしまったフェルガナ大学。しかし学生たちはそんな状況でも自主的に集まり、肩を寄せ合い参考書を広げ、互いに意見を交換して自学自習に励む日々を送っていたそうです。
やがてタシケントに退避してしまった日本人の先生も、そんな学生たちのために休日を利用してタシケントから車で数時間はかかるフェルガナまで足を運び、無償で日本語の授業を行ってなんとかフェルガナ大学の日本語コースを守り続けていたという。

やがてアンディジャン周辺地域の情勢は安定し、日本人の先生もフェルガナに住めるようになるだろう、となったとき、ちょうどフィリピンでの任期を終えようとしていた私のもとにお声がかかり、私も二つ返事で快諾。2006年の新学期からフェルガナ大学日本語コース再開の命が下されました。

フェルガナでも日本語を学びたいという学生のために門戸を開いた初代、
消滅の危機にありながらもそれをなんとか守り、つなぎ止めた二代目、
そしてそのバトンは東洋一頼りない日本語教師でもある私の手に託され、2006年5月、ウズベキスタンへ…。

…が、事態はそんなに甘くはありませんでした。
実際に現地へ行ってみると、これまで日本語コースの運営に協力的だったフェルガナ大学の国際部長が更迭され、大学側は「学生が自主的に勉強するのは構わないが、日本人の先生の労働ビザを申請し、雇う意思はない」という姿勢。
さらに、フェルガナ大学とも協力体制をとっていた現地の日本語学校の所長までも「自分の運営する機関との競合になる大学へは協力できない」という姿勢を見せ始める始末。

学生たちは学長や副学長に直訴し、歴代の日本人の先生やタシケントの先生方まで巻き込むような形になってフェルガナ大学日本語コースの再開に奔走する日々が続きました。

しかし、結局それはかなわず、私の観光ビザの期限も迫ってしまい、失意の帰国。

私が日本へ帰ったあともフェルガナ大学の学生たちは大学関係者に何度も懇願したようですが、それも叶うことはなく、結局、力及ばなかった私がフェルガナ大学でできたことといえば「日本語コースの再開」など夢のまた夢で、週に1~2回の日本語の授業が精一杯でありました。

そしてこの一件をきっかけに、私の日本語教師としての在り方は

決して日本語教育が盛んとはいえない国の、それも地方都市で日本語教師も教材も教育体制も整っていない場所で、日本人と接する機会もほとんどない、そんな場所でも日本語を学びたいと思っている学生たちに日本語を学ぶことの楽しさを知ってもらいたい。

というものになっていったのであります。ほとんど自己満足なんですがね…。

そんなこんなでウズベキスタン・フェルガナを去り、その後ベトナムでちょっとほろ苦い思いも味わったあと、やはり日本人教師不在のうえに教師不足にあえいでいたモンゴルへと渡ることになったわけですが、そこでもやはり2年間の勤務の最後に大学側の一方的な決定で日本人の雇用が取りやめになるという事態になってしまい、学生たちには申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら帰国。

しかし、こうして過去を振り返ってみると、ウズベキスタンでの一件にもモンゴルの一件にも必ず関与している「とある組織」の存在があったのです…。

そしてこの度、ここはひとつ私自身が自らの身を投げ打ってその組織に飛び込んでみようじゃないか、という決意をしたのであります。


つづく

テーマ:ウズベキスタン - ジャンル:海外情報

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://springfactory.blog101.fc2.com/tb.php/171-121ec0e3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。